1997年7月アーカイブ

1997年07月28日 共同通信社経済部 伴武澄

 NTT方式のデジタル携帯電話が国境を超えて使用できないのはもはや既定事実。世界100カ国に導入されてしまった欧州のGSM方式の勝利が固まったかに見えたが、ここへきて米国生まれのCDMA方式が俄然、巻き返しを図っている。

 世界の携帯電話市場ではここ数年、デジタル化が急速に進んでいるが、欧州全域で使うことを目的とし、英国で開発されたGSM方式が日米勢が海外展開に尻込みする間にアジアやアフリカ世界を席巻。事実上の世界標準の地位を固めた。

 昨年秋、ドイツテレコムのゾマー会長が東証上場のため来日、記者会見で自分の携帯電話を取り上げ「この電話は昨日、アイルランドでも通話できた」と自慢 したことは記憶に新しい。携帯電話の特徴は、地域を超えて通話できるローミング機能を持つことだ。同じ方式が採用されていれば、一つの電話機で国境を超え た利用ができるため、各方式とも先陣を競い合った。GSM方式の普及には、ノルウェーのノキア社とスウェーデンのエリクソン社の国際的な営業展開が功を奏 した。

 日本では、法律でNTTが国外での営業を禁止していたため、裏庭ともいえるアジア市場で、NTTとしてはGSM方式の相次ぐ導入に地団太を踏まざるをえなかった。

 ●米国で相次ぐCDMA方式の導入
 しかし、今年に入って米国で生まれたCDMA方式が強力な巻き返しに出ている。高音質と省電力を武器で、スプリントはじめ米国の半分の携帯電話会社が昨 年以降、相次いでCDMA方式を採用した。スプリントは既に6億ドル分の端末を韓国の三星電子に発注したといわれ、香港でもハチソン・ワンポアがCDMA 方式によるサービスを開始、GSMの一人勝ちだったグローバル市場に異変が起きた。

 世界の情報通信業界の最大の関心は中国。米国のモートローラ、ルーセント・テクノロジー、韓国の三星、LG両グループ、カナダのノーザンテレコムが参画、既に6市でCDMA方式による実験が始まっているからだ。

 ●三星は携帯端末でシェア拡大も
 もう一の注目点は、韓国が唯一、このCDMA方式を導入していて、三星電子など韓国勢が標準規格の巻き返しに一役買いそうな勢いにあるということだ。米国に続いて、中国でも本格採用となれば、端末開発で先行している韓国勢の世界市場でのシェア拡大は必至だ。

 韓国としても、米国のベンチャーであるクアルコム社が開発したばかりの新技術であるCDMAに不安がなかったわけではない。しかし、「GSMを導入したら技術優位にあるノキアやエリクソンに国内市場を席巻される」という恐れの方が強かったといわれる。

 日本でも携帯電話のデジタル化同様の危機感を持ち、独自方式を採用したという経緯がある。いずれにせよ韓国は「ギャンブルに勝った」ことになる。  CDMA方式が米中韓で主流となれば、GSMグループも安閑としてはいられない。NTT方式の優位を信じてきた日本も郵政省の審議会が遅まきながら「CDMA方式導入」を提言したおり、北部アジア太平洋地域に携帯電話の新たな世界標準が生まれる可能性も出ている。

1997年07月20日 共同通信社経済部 伴武澄

 特定新規事業法という法律名が最近の新聞に出ていた。翻訳すると、「ベンチャー企業の資金調達支援法」。通産省が認定した企業に産業基盤整備基金(郵便 貯金の一部を運用する通産省の基金)が債務保証したり、官民共同のベンチャーキャピタルである「新規事業投資」(官民出資の会社)が出資したりする制度 だ。しかしどう読んでもこの法律の「特定」が「ベンチャー企業」を意味するとは理解できそうにない。ここでは官僚が国民を体よく騙すノウハウがたくさん詰 まっている用語について説明したい。

 「特石法」という法律を覚えている人は多いと思う。「特石法」が1996年4月に廃止され、ガソリンの輸入が解禁された。ほう、ガソリンは輸入が禁止さ れていたんだ。輸入ガソリンがなかったから競争もなく、ガソリン価格が高値で維持されていたんだ。多くのドライバーがそんな感想をもったに違いない。
 実は、廃止が決まった前年から市中のガソリン価格は一気に下落した。ガソリンが輸入されるということが分かっただけで、価格が下がるのだから市場主義経済は恐ろしくもおかしくもある。

 この特石法の正式名称は「特定石油製品輸入暫定措置法」とややこしい。頭のいい人が読めば、特定の石油製品を暫定的に輸入するための法律だと考えそうだ が、実は逆だったのである。官僚が作る法律にはこの手のものがいくらでもあるから騙されてはいけない。  特石法が、施行された1986年4月までは、ガソリンの輸入は通産省への届け出だけ済んだのが、この日を境に「国内に精製設備を持つ企業のみが輸入でき る」とことに制度が変わった。この「できる」がみそなのだ。普通だったら「国内に精製設備を持たない企業は輸入できない」と法律に表記するはずなのに 「・・・のみ・・・できる」と表記するところに官僚のずるさがある。だから事実上の輸入禁止措置がなんだか輸入のための法律のように錯覚を起こすのであ る。

 特石法が制定された背景には、とんでもない経緯がある。ガソリンは1995年まで通産省への届け出だけで輸入できたことはすでに述べた。制度的に輸入は できていたのが、それまで実はだれもこの制度を利用してガソリンを輸入しようとしなかった。国内で流通する石油製品はすべて国内で賄おうとする通産省にあ えて反旗を翻す企業がいなかったでけではない。そもそも内外の価格差は少なく、輸入するメリットも小さかったからだ。

 しかし、プラザ合意以降の円高で内外のガソリン価格差は広がり、ガソリンを輸入するメリットが大いに出てきた。そんなチャンスにお上に敢然と立ち向かう ガソリン業者が現れた。神奈川県を地盤としたライオンズ石油の佐藤社長だ。佐藤社長は、法律通りガソリンの輸入申請をした。驚いたのは通産省の輸入課だっ た。輸入できる法律があっても「よもや」と考えていたのだろう。業界をすべてコントロールできると考えていた通産省はこの「申請書」を受理しないという手 段に出た。

 しかし、佐藤社長は諦めなかった。内容証明付き郵便で改めて「申請書」を送りつけ、シンガポールからの輸入手続きに入った。本来、届け出制度は「受理す る」も「受理しない」もない。通産省はここでライオンズ石油に一本取られた。1986年の正月、シンガポールからのガソリンを満載したタンカーの第一弾が 大阪の堺港に入港した。なんとしてもライオンズ石油のガソリン輸入を阻止したい通産省は、最後の手に出た。

 大蔵省に手を回し、ライオンズ石油の取り引き金融機関だった城南信金に圧力をかけた。城南信金はただちにライオンズ石油に出向き、融資打ち切りを宣告し た。資金繰りに窮したライオンズ石油は結局、ガソリンの輸入を断念せざるを得なかった。話を簡潔に説明すると、こういうことが水面下で起きていたのだ。

 それで、堺港に入ったガソリンはどうなったかというと、日本石油が買い取り、通関上はナフサとして輸入された。ナフサとガソリンは組成上ほとんど同じだ が、石油ショック以降の日本の石油化学業界への保護策として安い海外のナフサだけは輸入が許されていたのだ。通産省の石油政策は一貫して産業重視を取って きている。ガソリン税がべらぼうに高くて、軽油税が安いのはもちろん、原油を精製してできるもろもろの石油製品価格を国際的な市場価格に委ねるではなく、 民生用のガソリンに多くの負荷をかける形で産業界に優遇措置を与えてきたのだ。

 名古屋のカナエ石油がガソリンの安売りスタンドを開店したときにガソリンの「供給ルート」を報告させようとしてマスコミに批判されたことは記憶に新し い。通産省はガソリンスタンドの設置を認めても「安売り」を敢行する業者に対してはあらゆる手段で阻止を図ろうとする。ライオンズ石油は金融機関を通じた 圧力がかかったが、カナエ石油には石油元売りを通じて供給ストップをかけようとした。そして官僚と国内津々浦々にまでネットワークを張る業界との癒着を通 じて国内の新しい試みをすべてつぶしてきた。

 そんな、通産省が「このままでは日本の産業がつぶれる」とベンチャー育成に乗り出しているのだから悲しい。日本の産業の発展のためには国家はなにもしないことである。

 廃止されたこの[特石法」は日本の法律や制度、つまり官僚の発想を理解する上でこのうえなく興味ある存在なのだ。10年来そう信じてきたし、頭にきていた。

1997年07月20日
共同通信社経済部 伴武澄

 特定新規事業法という法律名が最近の新聞に出ていた。翻訳すると、「ベンチャー企業の資金調達支援法」。通産省が認定した企業に産業基盤整備基金(郵便 貯金の一部を運用する通産省の基金)が債務保証したり、官民共同のベンチャーキャピタルである「新規事業投資」(官民出資の会社)が出資したりする制度 だ。しかしどう読んでもこの法律の「特定」が「ベンチャー企業」を意味するとは理解できそうにない。ここでは官僚が国民を体よく騙すノウハウがたくさん詰 まっている用語について説明したい。

 「特石法」という法律を覚えている人は多いと思う。「特石法」が1996年4月に廃止され、ガソリンの輸入が解禁された。ほう、ガソリンは輸入が禁止さ れていたんだ。輸入ガソリンがなかったから競争もなく、ガソリン価格が高値で維持されていたんだ。多くのドライバーがそんな感想をもったに違いない。
 実は、廃止が決まった前年から市中のガソリン価格は一気に下落した。ガソリンが輸入されるということが分かっただけで、価格が下がるのだから市場主義経済は恐ろしくもおかしくもある。

 この特石法の正式名称は「特定石油製品輸入暫定措置法」とややこしい。頭のいい人が読めば、特定の石油製品を暫定的に輸入するための法律だと考えそうだ が、実は逆だったのである。官僚が作る法律にはこの手のものがいくらでもあるから騙されてはいけない。  特石法が、施行された1986年4月までは、ガソリンの輸入は通産省への届け出だけ済んだのが、この日を境に「国内に精製設備を持つ企業のみが輸入でき る」とことに制度が変わった。この「できる」がみそなのだ。普通だったら「国内に精製設備を持たない企業は輸入できない」と法律に表記するはずなのに 「・・・のみ・・・できる」と表記するところに官僚のずるさがある。だから事実上の輸入禁止措置がなんだか輸入のための法律のように錯覚を起こすのであ る。

 特石法が制定された背景には、とんでもない経緯がある。ガソリンは1995年まで通産省への届け出だけで輸入できたことはすでに述べた。制度的に輸入は できていたのが、それまで実はだれもこの制度を利用してガソリンを輸入しようとしなかった。国内で流通する石油製品はすべて国内で賄おうとする通産省にあ えて反旗を翻す企業がいなかったでけではない。そもそも内外の価格差は少なく、輸入するメリットも小さかったからだ。

 しかし、プラザ合意以降の円高で内外のガソリン価格差は広がり、ガソリンを輸入するメリットが大いに出てきた。そんなチャンスにお上に敢然と立ち向かう ガソリン業者が現れた。神奈川県を地盤としたライオンズ石油の佐藤社長だ。佐藤社長は、法律通りガソリンの輸入申請をした。驚いたのは通産省の輸入課だっ た。輸入できる法律があっても「よもや」と考えていたのだろう。業界をすべてコントロールできると考えていた通産省はこの「申請書」を受理しないという手 段に出た。

 しかし、佐藤社長は諦めなかった。内容証明付き郵便で改めて「申請書」を送りつけ、シンガポールからの輸入手続きに入った。本来、届け出制度は「受理す る」も「受理しない」もない。通産省はここでライオンズ石油に一本取られた。1986年の正月、シンガポールからのガソリンを満載したタンカーの第一弾が 大阪の堺港に入港した。なんとしてもライオンズ石油のガソリン輸入を阻止したい通産省は、最後の手に出た。

 大蔵省に手を回し、ライオンズ石油の取り引き金融機関だった城南信金に圧力をかけた。城南信金はただちにライオンズ石油に出向き、融資打ち切りを宣告し た。資金繰りに窮したライオンズ石油は結局、ガソリンの輸入を断念せざるを得なかった。話を簡潔に説明すると、こういうことが水面下で起きていたのだ。

 それで、堺港に入ったガソリンはどうなったかというと、日本石油が買い取り、通関上はナフサとして輸入された。ナフサとガソリンは組成上ほとんど同じだ が、石油ショック以降の日本の石油化学業界への保護策として安い海外のナフサだけは輸入が許されていたのだ。通産省の石油政策は一貫して産業重視を取って きている。ガソリン税がべらぼうに高くて、軽油税が安いのはもちろん、原油を精製してできるもろもろの石油製品価格を国際的な市場価格に委ねるではなく、 民生用のガソリンに多くの負荷をかける形で産業界に優遇措置を与えてきたのだ。

 名古屋のカナエ石油がガソリンの安売りスタンドを開店したときにガソリンの「供給ルート」を報告させようとしてマスコミに批判されたことは記憶に新し い。通産省はガソリンスタンドの設置を認めても「安売り」を敢行する業者に対してはあらゆる手段で阻止を図ろうとする。ライオンズ石油は金融機関を通じた 圧力がかかったが、カナエ石油には石油元売りを通じて供給ストップをかけようとした。そして官僚と国内津々浦々にまでネットワークを張る業界との癒着を通 じて国内の新しい試みをすべてつぶしてきた。

 そんな、通産省が「このままでは日本の産業がつぶれる」とベンチャー育成に乗り出しているのだから悲しい。日本の産業の発展のためには国家はなにもしないことである。

 廃止されたこの[特石法」は日本の法律や制度、つまり官僚の発想を理解する上でこのうえなく興味ある存在なのだ。10年来そう信じてきたし、頭にきていた。

1997年07月10日 共同通信社経済部 伴武澄

返還後の香港では「香港の中国化が始まる」といわれているが、英国勢が植民地を去り、中国資本が香港での存在感を増す潮流はなにも最近始まったことではな い。すでに1980年代からひとつの流れを形成していたし、香港が植民地でなくなり中国に返還されて何も変わらないのであれば、そもそも返還の意味はな い。

 香港の企業社会は一貫して、中継貿易と不動産業を生業に発展してきた。今では対中投資の重要な拠点として金融や航空、メディアなどの分野でも世界のハブ機能を果たしつつある。

 ●地場資本の形成-1960年代
 戦前から続く英国系企業の代表格は香港上海銀行、ジャーディーン・マセソン(貿易)、スワイヤー(航空)、カドューリー(電力)。植民地時代からの利権を継承して社業を発展させた。
 1940年代に入ると共産中国を逃れた上海財閥の一群が香港にやってきて繊維産業を中心とした製造業を起こす。今回行政長官に任命されたC.H.Tongもその一族で、香港を基地とした海運業で成功した。
 1960、70年代には、リー・カーシンの長江実業やリー・シャウキーのヘンダーソンランドなど地場資本が台頭、英国系企業を次々と傘下に収めて、コン グロマリットを形成。地場の中国人資本が香港経済の主役に躍り出るようになった。同時に香港政庁の高官にも香港人の登用が相次ぎ、植民地の呼称も colonyからterritoryへと変わる。

 ●グレーター香港の形成-1980年代
 1980年代の特徴は、中国の改革開放政策に乗って、広東省への怒濤のような進出が始まる。中国への海外からの投資の6割が香港からといわれ、香港系企業が中国で雇用する労働者は500万人ともいわれる。香港の製造業従事者の数を上回る。


 1984年に香港の中国返還が決まると、香港での企業社会地図が大幅に塗り変わる。84年、まずジャーディン・マセソンがバミューダに拠点を移し、91 年には香港上海銀行がロンドンに持株会社を設立する。英国系資本の香港逃避は、資産の保全を狙った当然の行為ととらえることができる。
 同時に、起きたことは中国の赤い資本家の香港進出である。中国国際信託公司(CITIC)がまず、CITIC Pacificを設立した。光大実業も早くから進出した。従来から香港には共産国家が経営する大会社が多く香港に存在していた。中國銀行、中国旅行社、華 潤公司などが代表的組織だ。実はこうした企業は文化大革命の時期も香港で営々と企業経営を続けていた。

 ●中国企業の香港での資本形成-1990年代
 1990年代に入ると中国企業の香港上場がブームとなり、欧米の資金が殺到する。中国系企業による英国系企業の株式取得も始まり、ドラゴン航空は完全に 中国資本の企業となり、キャセイパシフィック航空も25%まで中国の資本が入った。香港テレコムにも中国郵電部の資金が入りつつある。
 ここ数年では、ペキン・エンタープライゼスや上海実業など通称レッドチップと呼ばれる中国系企業の株式市場での資本調達が目立っている。


 香港社会での中国の存在感は過去20年間かけて徐々に増しており、この傾向は最近始まったものではない。またこうした企業を運営する中国側エリートは米国を中心とした留学組で資本主義的経営の素養は、日本人より西欧化している部分もあると指摘されている。


 返還後の香港への不安が先進諸国の間に台頭しているが、華南地区の香港化は既に10年の歴史があり、逆に80年代からの香港の発展は、中国の改革開放路 線を抜きにしては考えられない。香港が向こう50年間、資本主義体制のもとで活性化を保つかどうかは意見が分かれるところであるが、70年代からの「香港 人による香港化」と80年代以降の「香港の中国との一体化」はそう簡単にはつぶれないだろう。(了)

1997年07月10日
共同通信社経済部 伴武澄

 返還後の香港では「香港の中国化が始まる」といわれているが、英国勢が植民地を去り、中国資本が香港での存在感を増す潮流はなにも最近始まったことでは ない。すでに1980年代からひとつの流れを形成していたし、香港が植民地でなくなり中国に返還されて何も変わらないのであれば、そもそも返還の意味はな い。

 香港の企業社会は一貫して、中継貿易と不動産業を生業に発展してきた。今では対中投資の重要な拠点として金融や航空、メディアなどの分野でも世界のハブ機能を果たしつつある。

 地場資本の形成-1960年代


 戦前から続く英国系企業の代表格は香港上海銀行、ジャーディーン・マセソン(貿易)、スワイヤー(航空)、カドューリー(電力)。植民地時代からの利権を継承して社業を発展させた。

 1940年代に入ると共産中国を逃れた上海財閥の一群が香港にやってきて繊維産業を中心とした製造業を起こす。今回行政長官に任命されたC.H.Tongもその一族で、香港を基地とした海運業で成功した。

 1960、70年代には、リー・カーシンの長江実業やリー・シャウキーのヘンダーソンランドなど地場資本が台頭、英国系企業を次々と傘下に収めて、コン グロマリットを形成。地場の中国人資本が香港経済の主役に躍り出るようになった。同時に香港政庁の高官にも香港人の登用が相次ぎ、植民地の呼称も colonyからterritoryへと変わる。

 グレーター香港の形成-1980年代

 1980年代の特徴は、中国の改革開放政策に乗って、広東省への怒濤のような進出が始まる。中国への海外からの投資の6割が香港からといわれ、香港系企業が中国で雇用する労働者は500万人ともいわれる。香港の製造業従事者の数を上回る。

 1984年に香港の中国返還が決まると、香港での企業社会地図が大幅に塗り変わる。84年、まずジャーディン・マセソンがバミューダに拠点を移し、91 年には香港上海銀行がロンドンに持株会社を設立する。英国系資本の香港逃避は、資産の保全を狙った当然の行為ととらえることができる。

 同時に、起きたことは中国の赤い資本家の香港進出である。中国国際信託公司(CITIC)がまず、CITIC Pacificを設立した。光大実業も早くから進出した。従来から香港には共産国家が経営する大会社が多く香港に存在していた。中國銀行、中国旅行社、華 潤公司などが代表的組織だ。実はこうした企業は文化大革命の時期も香港で営々と企業経営を続けていた。

 中国企業の香港での資本形成-1990年代

 1990年代に入ると中国企業の香港上場がブームとなり、欧米の資金が殺到する。中国系企業による英国系企業の株式取得も始まり、ドラゴン航空は完全に 中国資本の企業となり、キャセイパシフィック航空も25%まで中国の資本が入った。香港テレコムにも中国郵電部の資金が入りつつある。

 ここ数年では、ペキン・エンタープライゼスや上海実業など通称レッドチップと呼ばれる中国系企業の株式市場での資本調達が目立っている。

 香港社会での中国の存在感は過去20年間かけて徐々に増しており、この傾向は最近始まったものではない。またこうした企業を運営する中国側エリートは米国を中心とした留学組で資本主義的経営の素養は、日本人より西欧化している部分もあると指摘されている。

 返還後の香港への不安が先進諸国の間に台頭しているが、華南地区の香港化は既に10年の歴史があり、逆に80年代からの香港の発展は、中国の改革開放路 線を抜きにしては考えられない。香港が向こう50年間、資本主義体制のもとで活性化を保つかどうかは意見が分かれるところであるが、70年代からの「香港 人による香港化」と80年代以降の「香港の中国との一体化」はそう簡単にはつぶれないだろう。(了)

1997年07月05日 共同通信社経済部 伴武澄

 6月29日から7月4日まで香港と珠河デルタに滞在。なんとしても香港返還をこの目で見たいという旅の感慨だった

 雨だった。毎日、大雨だった。特に2日から3日にかけては豪雨が見舞い、50年の観測史上最大の400-500ミリの降雨量を記録、各地で土砂崩れが起き、交通網は寸断された。地元紙は「黒雨」と表現。日本人の友人は「天が泣いている」といった。

 30日と1日はまさに香港中が祇園祭りのような賑わいで、私がカウントダウンを待ったランカイフンという西洋人が多く集まる街では、満員電車並みの混 雑。汗と雨でぐしょぐしょになった人々が酒に酔い、「香港」「香港」のシュプレヒコールを繰り返した。ビル街を「ウォー」という声がこだまする異常な雰囲 気だった。いつのまにか私も「香港」を合唱していた。めでたいのが、明日からの不安がそうするのか分からない。

 そこから、10分ほど徒歩で海の方に下ったセントラルでは民主派の人々が午前零時をはさんで集会を開き、返還後の言論の自由の必要性をアジっていた。午 前零時を過ぎても警察の介入はなかったことに観光客の私は若干、感動した。民主派は2日にも大規模デモを敢行したが、弾圧はなかった。

 返還式が行われたワンチャイのコンベンションホールでは、粛々と儀式が取り行われていた。ユニオンジャックが下ろされ、五星紅旗が掲揚された。思えば 155年前の1842年、この地にアジアで初めてのユニオンジャックが掲げられてから西欧列強によるアジア侵略が始まった。南京条約は1860年の北京条 約につながり、日本の明治維新を引き起こす大きな契機となった。

 香港の租借はフランス、統一ドイツ、ロシアによる中国侵略の引き金となったことは歴史の事実である。ロシアは1858年愛グン条約で黒龍河以北の清の領 土を手中にした。中国だけではない。英国は1877年にインドを併合。フランスは1887年、インドシナを併合した。155年。ようやくアジアから「列 強」が去る記念日でもある。

 ユニオンジャックが下りた後の午前零時40分、チャールズ皇太子とパッテン総督はブリタニア号で香港を去った。多くの市民はその様子を家のテレビで見ていた。私もそんな感慨をもって香港という地で歴史的転換期を迎えた。

 しかし、私の中では、次に起こる解放軍の進駐と英国の撤退はまったく別の次元でとらえられていた。

 ほとんどの市民も返還後の午前6時の解放軍の進駐を見るまでは眠りにつけなかったはずだ。実は、香港での豪雨はそのときに始まった。これは誇張ではな い。豪雨の中を直立不動の人民解放軍の兵士がトラックに乗って整然と進駐した。この風景はその日、夜までテレビが繰り返し放映していた。

 解放軍は、着飾った小学生の旗に見送られて深セン市内をパレードした後、国境を越えたが、香港領内に入ってからも市民からそこそこの歓迎を受けていた。 歓迎ばかりではなかったかもしれない。不気味な存在の解放軍はどんな風体をしているの興味をもって沿道に並んだ人も多かったに違いない。 ただ国境を越えるあたりから雨の量が増した。

 共産・中国を迎えた香港の人々はそれぞれに違った感慨を持ったに違いない。一括りで語ることはできないだろう。私は、1日には新しい香港であるチェックラップコック空港の建設風景を見て、翌2日は孫文が生まれた中国の中山県を訪れた。

 中山県では、何事のなかったような雰囲気だった。孫文の生家は観光客も少なく静かなたたずまいを残していた。借り切ったタクシーの運転者がわずかに「返 還のお祭りで商売があがったりだ」と息巻いていた。経済特区の珠海市は建設ラッシュのさなかで、「97香港回帰」のカウントダウンの表示が「99マカオ回 帰」に変わっていた。一日に3回も国境を越えて出入国のはんこを6回押してもらった。珠河デルタの各都市には香港から多くのフェリーが就航しており、ボー ダーレスさながらの光景を体験した。

 香港で染色工場を経営する香港人の友人には、新空港ができるランタウ島にかかる世界最大の鉄道併用橋「青馬大橋」と新しいハイウエーを自慢のジャガーで ドライブしてもらった。75歳の父親は満面笑みで返還を「よかった」と喜んでいた。解放軍の進駐を見てどう思ったかと聞くと「誇りに思う」という。

 息子の方は「中国人として返還は当然と思うのだが、1日の朝、香港の新しい赤い旗を見て複雑な思いにとらわれた。赤という色はどうもね」「でもこれからわれわれが責任をもって香港を経営しなければならない」と気を引き締めていた。

 ここらあたりが大方の香港人の中国返還に対する思いではないかと思う。いままでは、英国の敷いた路線上で物事を判断してきたのだが、「港人治港」の標語 のとおり、香港人の自治に対する自決意識がなければ、それこそ中国側のいいなりの政治が行われるに違いない。世界各国の香港に対する目は「中国が香港をど う統治するか」という視点しかない。すべての論調が「港人治港」などありえないという前提に語っている。しかし、1週間の旅で考えたことは少々、意を異に する。香港人は中国がせっかく約束した「港人治港」という特別行政区の政治形態について、傍観的であってはならない。自らが政治に関わるという意識の高ま りが今まさに香港に必要とされているのではないか。

 中国は「港人治港」を約束しているし、いまのところ高圧的な態度をあらわにしているわけではない。確かに89年の天安門事件で示した人民への弾圧は人々 の脳裏から離れてはいない。しかし、あれは8年も前の話。中国では、大陸を恐怖のどん底に陥れた文化大革命の嵐ですら12年後には「改革開放路線」に転じ た経緯がある。

 7月7日付サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙は、中国政府高官の話として「中国政府は香港駐留解放軍の規模を今後、縮減する計画がある。5000人 もの大部隊を送り込んだのは返還式典を権威付ける目的だった」と報じた。真意はともかく、中国が同じ過ちを二度、三度と起こすのだろうか。(終)

1997年07月05日
共同通信社経済部 伴武澄

 6月29日から7月4日まで香港と珠河デルタに滞在。なんとしても香港返還をこの目で見たいという旅の感慨だった

 雨だった。毎日、大雨だった。特に2日から3日にかけては豪雨が見舞い、50年の観測史上最大の400-500ミリの降雨量を記録、各地で土砂崩れが起き、交通網は寸断された。地元紙は「黒雨」と表現。日本人の友人は「天が泣いている」といった。

 30日と1日はまさに香港中が祇園祭りのような賑わいで、私がカウントダウンを待ったランカイフンという西洋人が多く集まる街では、満員電車並みの混 雑。汗と雨でぐしょぐしょになった人々が酒に酔い、「香港」「香港」のシュプレヒコールを繰り返した。ビル街を「ウォー」という声がこだまする異常な雰囲 気だった。いつのまにか私も「香港」を合唱していた。めでたいのが、明日からの不安がそうするのか分からない。

 そこから、10分ほど徒歩で海の方に下ったセントラルでは民主派の人々が午前零時をはさんで集会を開き、返還後の言論の自由の必要性をアジっていた。午 前零時を過ぎても警察の介入はなかったことに観光客の私は若干、感動した。民主派は2日にも大規模デモを敢行したが、弾圧はなかった。

 返還式が行われたワンチャイのコンベンションホールでは、粛々と儀式が取り行われていた。ユニオンジャックが下ろされ、五星紅旗が掲揚された。思えば 155年前の1842年、この地にアジアで初めてのユニオンジャックが掲げられてから西欧列強によるアジア侵略が始まった。南京条約は1860年の北京条 約につながり、日本の明治維新を引き起こす大きな契機となった。

 香港の租借はフランス、統一ドイツ、ロシアによる中国侵略の引き金となったことは歴史の事実である。ロシアは1858年愛グン条約で黒龍河以北の清の領 土を手中にした。中国だけではない。英国は1877年にインドを併合。フランスは1887年、インドシナを併合した。155年。ようやくアジアから「列 強」が去る記念日でもある。

 ユニオンジャックが下りた後の午前零時40分、チャールズ皇太子とパッテン総督はブリタニア号で香港を去った。多くの市民はその様子を家のテレビで見ていた。私もそんな感慨をもって香港という地で歴史的転換期を迎えた。

 しかし、私の中では、次に起こる解放軍の進駐と英国の撤退はまったく別の次元でとらえられていた。

 ほとんどの市民も返還後の午前6時の解放軍の進駐を見るまでは眠りにつけなかったはずだ。実は、香港での豪雨はそのときに始まった。これは誇張ではな い。豪雨の中を直立不動の人民解放軍の兵士がトラックに乗って整然と進駐した。この風景はその日、夜までテレビが繰り返し放映していた。

 解放軍は、着飾った小学生の旗に見送られて深セン市内をパレードした後、国境を越えたが、香港領内に入ってからも市民からそこそこの歓迎を受けていた。 歓迎ばかりではなかったかもしれない。不気味な存在の解放軍はどんな風体をしているの興味をもって沿道に並んだ人も多かったに違いない。 ただ国境を越えるあたりから雨の量が増した。

 共産・中国を迎えた香港の人々はそれぞれに違った感慨を持ったに違いない。一括りで語ることはできないだろう。私は、1日には新しい香港であるチェックラップコック空港の建設風景を見て、翌2日は孫文が生まれた中国の中山県を訪れた。

 中山県では、何事のなかったような雰囲気だった。孫文の生家は観光客も少なく静かなたたずまいを残していた。借り切ったタクシーの運転者がわずかに「返 還のお祭りで商売があがったりだ」と息巻いていた。経済特区の珠海市は建設ラッシュのさなかで、「97香港回帰」のカウントダウンの表示が「99マカオ回 帰」に変わっていた。一日に3回も国境を越えて出入国のはんこを6回押してもらった。珠河デルタの各都市には香港から多くのフェリーが就航しており、ボー ダーレスさながらの光景を体験した。

 香港で染色工場を経営する香港人の友人には、新空港ができるランタウ島にかかる世界最大の鉄道併用橋「青馬大橋」と新しいハイウエーを自慢のジャガーで ドライブしてもらった。75歳の父親は満面笑みで返還を「よかった」と喜んでいた。解放軍の進駐を見てどう思ったかと聞くと「誇りに思う」という。

 息子の方は「中国人として返還は当然と思うのだが、1日の朝、香港の新しい赤い旗を見て複雑な思いにとらわれた。赤という色はどうもね」「でもこれからわれわれが責任をもって香港を経営しなければならない」と気を引き締めていた。

 ここらあたりが大方の香港人の中国返還に対する思いではないかと思う。いままでは、英国の敷いた路線上で物事を判断してきたのだが、「港人治港」の標語 のとおり、香港人の自治に対する自決意識がなければ、それこそ中国側のいいなりの政治が行われるに違いない。世界各国の香港に対する目は「中国が香港をど う統治するか」という視点しかない。すべての論調が「港人治港」などありえないという前提に語っている。しかし、1週間の旅で考えたことは少々、意を異に する。香港人は中国がせっかく約束した「港人治港」という特別行政区の政治形態について、傍観的であってはならない。自らが政治に関わるという意識の高ま りが今まさに香港に必要とされているのではないか。

 中国は「港人治港」を約束しているし、いまのところ高圧的な態度をあらわにしているわけではない。確かに89年の天安門事件で示した人民への弾圧は人々 の脳裏から離れてはいない。しかし、あれは8年も前の話。中国では、大陸を恐怖のどん底に陥れた文化大革命の嵐ですら12年後には「改革開放路線」に転じ た経緯がある。

 7月7日付サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙は、中国政府高官の話として「中国政府は香港駐留解放軍の規模を今後、縮減する計画がある。5000人 もの大部隊を送り込んだのは返還式典を権威付ける目的だった」と報じた。真意はともかく、中国が同じ過ちを二度、三度と起こすのだろうか。(終)

1997年07月04日 共同通信社経済部 伴武澄

 7月1日の香港返還をはさんで6日間、香港に滞在した。友人の好意で、新しい高級住宅地として開発中のディスカバリーベイに2泊した。街の中で自家用車 の保有が禁止され、電気自動車が代わりに交通機関として走り回ると聞いて、「香港社会はここまできたか」と期待が膨らんだ。

 ディスカバリーベイは、ここは新空港が建設されているランタウ島の北東部。ここの住宅地は一般道とは完全に切り離され、出入りは香港セントラルからの フェリーだけだ。人口の砂浜を備えた避暑地のようなたたずまいを見せ、セントラルやカオルーンの喧噪から逃れられる唯一の住宅街。自家用車の保有が禁止さ れている。結論から言えば、電気自動車は一台もなかった。住人の日常の足として使われていたのは、ガソリンエンジンのゴルフカートだった。

 このゴルフカートはレンタル制で、一定のカネをデポジットした住人だけにエンジンキーが渡される。車は共有制で、日本でも考えられている最寄り駅を中心 としたコミューター的発想がすでに実現していた。住宅街そのものが最大で5キロ程度しかなく、まさに電気自動車の普及にうってつけの環境がそろっている。

 アメリカで一番電気自動車が普及しているアリゾナ州でもこのゴルフカートが走っている。ゴルフカートの公道での使用を解禁しただけにすぎないが、カナダの航空機メーカーでもあるボンバルディア社が、75万円という破格の電気自動車を昨年、発売したのが普及に拍車をかけている。メーカー側と行政の息のあった発想の転換が環境保全という問題に一つの答えを出したケースでもある。

 ボンバルディア社の説明によると、アメリカの8割の自家用車は、1日平均30キロしか走っていないという調査結果があり、電気自動車の開発に当たりガソリン車並みの走行距離は必要ない。

 2年前の東京モーターショーで取材した折り、各社の開発担当者は異口同音に「自動車メーカーが本気で電気自動車を開発していると考えたら間違い。本気だったら電気自動車の展示は片隅ではなく、メインのブースにあるはずだ」と悔しさをかみしめていた。

 電気自動車のブースで目立った発想は本田技研工業にあった。「究極の4輪駆動車」と開発者が呼ぶクルマはタイヤホイールのなかにそれぞれモーターが組み 込まれていた。本田技術研究所 朝霞東研究所(048-462-5831)のチーフエンジニアの今井幹夫氏は「車軸は回転しません。モーター自身が回るから耐久性も高い」と胸を張った。 なるほど、これまでエンジンが占めていたスペースに蓄電池を置けば、それだけ多く動力源を載せられるというわけだ。動力をエンジンからモーターに代えるだ けで車の概念が150%変わるということを教えられた。

 当時、自作の電気自動車でアメリカ大陸横断に成功したばかりの東京電機大学の藤中正治教授(研究室 03-5280-3359)は、「モーターのエネルギー交換率はエンジンと比較して格段に高い」ことを立証した。

アメリカでの実験では、キロ当たり1円。ガソリン車の5分の1から10分の1でした」と電気自動車の経済性についても言及した。そういえば、日本でも高速 鉄道はすべてモーターで動く。ディーゼル機関車は運行本数が数ないローカル線に限られている。自動車だって電源となる電池さえあれば、電気自動車の方がエ ネルギー消費の面からも優位にたてるはずだ。

 電気自動車の価格は現在、ガソリン車の2倍から3倍もするが、コスト高の要因は「単に大量生産していないだけ」と手厳しい。構造的にエンジンより簡単なのだから本来は、電気自動車の方が安く生産できてもなんら不思議ではない。

 藤中教授によると、「直流を交流に変換するインバーダーの価格が現在、200万円とかいっているが、こんなもの家電メーカーに作らせれば、10万円以下 でできる。クーラー用のインバーダーなど数万円もしない」という。電池も車の用途を近距離に限定すれば、現在の鉛電池でも十分使用に耐えうる電気自動車が いますぐにでも生産できるはずだ。

 にもかかわらず、電気自動車がなかなか普及しないのは、自動車メーカーがメインで開発しているからだ。台湾の松下幸之助と呼ばれる台湾プラスチックの王 英慶会長は、いつの日にか台湾製の電気自動車が世界の公道を走り回るのを夢見ている。「エンジン開発にこだわる現在の自動車メーカーは絶対に自らの壁を乗 り越えられない」と断言、電気自動車の開発に余念がない。

 21世紀に電気自動車の市場を席巻するのは既存の自動車メーカーではないという大方の予想は的中するのではないかと考えている。一番近いのがモーターと 電池の開発力がある電気メーカーであろうし、ひょっとしたら乗用車市場でシェアを持たない農機メーカーあたりが穴馬かもしれない。軽い素材という点では化 学メーカーの進出だってありうる。供給面からみれば、大規模な住宅開発が可能なデベロッパーが製造・リースに乗り出すケースも想定できる。なによりも先進 国を追う途上国にも市場に参入する大きなチャンスがあるといわなければならない。

 一昔前、富山市の光岡自動車が4輪の原付自動車を発売したとたんに運輸省が「ノー」といった。そもそも原付自転車を発明したのは本田宗一郎だし、補助動 力付き自転車というのも最近では人気。老人や障害者向けのカートが無免許で公道を走れて、なぜゴルフカートが公道を走ったらいけないのか疑問だ。電気自動 車は多くの問題をわれわれに投げかけている。(了)

このアーカイブについて

このページには、1997年7月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは1997年6月です。

次のアーカイブは1997年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ