アヤクチョはアンデス中央高地の標高2,750mに位置する人口13万人ほどの町であり、アヤクチョ州の州都でもある。リマから、バスで南東に10時間ほどの距離にある。私たちは5月上旬にこの地を訪れた。
アヤクチョからCostaに通じる最初の道路が整備されたのは1924年であり、リマへの舗装道路の整備が完了したのは1999年であったこともあり、この地は長い間、外国人旅行者によって最も訪問されない土地の一つであった。
このアヤクチョ州のキヌアには、スペインからの独立を決定付けたアヤクチョの戦いを記念して、40mのモニュメントが建立されている。私たちはアヤクチョ州農業局を訪問した後、キヌアを訪れた。標高3300mほどのキヌアはアヤクチョ市の北東に位置し、タクシーで1時間ほどの距離にある。
現在ペルーでは、7月28日、29日が独立記念日として祝日となっているが、これはアルゼンティン独立の立役者であり、チリをスペインから解放したサン・マルティンがリマに無血入城し、独立宣言した1821年7月28日に由来している。しかし1821年の時点では、リマの副王ラ・セルナが軍隊の一部をカジャオの砦に移し、自身は高地地方に退却していたことから、スペイン軍は健在であった。1824年8月6日にアンデス中央高地のフニンにて、ベネズエラ、コロンビア、エクアドルをスペインから解放したシモン・ボリバルの部隊がスペイン軍を破り、同年12月9日にアヤクチョ盆地にて、ボリバルの右腕だったスクレの部隊がリマの副王ラ・セルナの部隊に勝利して、ペルーの独立が決定的となったのだった。
このようにペルー独立に大きく寄与したのはペルー人ではなく、外来の勢力であった。「何故、ペルー内部から発生しなかったのか。」という点は興味深い。
そもそも、ラテン・アメリカのスペイン副王領での独立運動は、ナポレオン・ボナパルトが1808年にスペイン国王フェルナンド7世を退位させ、実兄をホセ1世に据えたフランス支配に対して、本国人や現地生まれの白人であるクリオーリョがフェルナンド7世に忠誠を誓う動きからの延長で発生したものである。
この独立運動は、当初、アルゼンティンやベネズエラというスペイン副王領の僻地で展開されたが、それは、増田・柳田(1999)「ペルー−太平洋とアンデスの国(近代史と日系社会)」によると、僻地では、スペイン王室の支配や統制が緩やかであり、ヨーロッパ諸国間の密貿易が盛んであったことから、クリオーリョが自由な貿易権を獲得したいという願望を強くもっていたためだと説明されている。逆に、ペルーはスペインの古くからの植民地体制下にあり、スペイン人もクリオーリョも保守的な傾向が強く、独立運動が遅々として進展しなかったようだ。このあたりの事情が、理由の一つとなるだろう。
もう一つの理由はメスティソであるプマカワによる1814年のクスコでの武装蜂起がクリオーリョに及ぼす影響と関係している。
このプマカワは、当初、クリオーリョとの協力を前提として行動を開始したが、彼の運動が多数の原住民やメスティソを吸収するにつれ、結果的に、原住民やメスティソによる白人に対する憎悪が表面化し、クリオーリョを離脱させることになった。彼の軍事行動自体は1815年5月にシクアニの戦いで敗れ、失敗しているが、増田・柳田(1999)によれば、こうした彼の一連の行動がクリオーリョたちの潜在意識に恐怖心を植えつけ、クリオーリョの態度をむしろ保守化させ、スペイン人と協力しながら適度な機会を待つ、という姿勢を彼らにとらせたのではないか、と説明されている。
このように、ペルーでは、他のラテン・アメリカで独立の担い手となったクリオーリョが二の足を踏んでいたところに、サン・マルティンやシモン・ボリバルという外来勢力がやってきて、独立を果たすことになるのだ。
現在、キヌアは史跡を中心に観光地として整備されているわけでもないに思える。確かに、アヤクチョ及びキヌアはペルー人が誇りに思う地であるようだ。しかし、独立が外来勢力により果たされた点、独立以降、支配者となったカウディーリョのガマラがペルー独立に決定的な役割を果たしたスクレを敵に回して、隣国のボリビアやエクアドルとの領土拡大紛争を引き起こした点から、ペルー人にとって、複雑な心境を抱かせる地でもあるような気がしてならない。
立田潤一郎にメール junichiro1997@gmail.com
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