20世紀アジア最大の政治家李登輝氏にお会いした後、空路、台南に入り、八田與一が作った烏山頭ダムを管理する嘉南農田水利会主催による晩餐会にご招待いただいた。
李登輝友の会全国総会長の黄崑虎氏、国策顧問の呉天素氏等々、通常ならとてもお会いできないような方たちとも、懇談の場をいただく。
このご縁も全て、八田與一の名声によるものである。なにより、彼らにとって、八田與一は神様のような存在であり、八田與一と郷里が同じというだけで、大変な歓待振りである。
実は、今回の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行に、八田與一のご長男の八田晃夫氏と奥様が、現在お住まいの名古屋市から合流されている。なおさらのこと、現地の方たちは、「ご一行様」として大切にしてくれたのであろう。
翌7日、午前中、台南市内にある水利会を表敬訪問。
私は、そこの資料室で、八田與一が残した様々な資料に目を通す機会をいただいた。改めて、紹介できる機会もあるかもしれない。
その後、ABS樹脂生産で世界一を誇る台湾の奇美実業グループ許文龍氏の会社が所有する、「奇美博物館別館」にお伺いする。残念ながら、本館の方は、工事中ということでお伺いできなかったが、別館だけで、その蒐集の品の良さは十分窺い知れる。
広大な台南サイエンスパーク内に点在する、奇美実業グループの社屋をバスで見て回った後、社員食堂で夕食。正面に用意された舞台には、バイオリンのケースと、何かを覆っているであろう黄色い生地がかけられた台座が一つ。
そこに、許文龍氏が静かに現れた。
食事の後、許氏が話をされた。私を含めて、居合わせた全ての人たちは、緊張した面持ちでじっと聴き入っていた。言うまでもなく、三月下旬に、許氏の署名入りの声明書が発表されてから、まだ、間もないからである。公の場に出られるのは、おそらくは、それ以来初めてではないだろうか。
「引退の言葉」と題されたその声明書には、「台湾と中国は一つの中国に属している。台湾の独立は支持しない。反国家分裂法を支持する」旨が書かれていた。
許氏は、長年にわたって台湾独立を支持し、中国が台湾独立運動のリーダーとして非難する李登輝前総統とも親しく、大変な親日家でもある。
今、私の手元に、許氏の講演やインタビューを、許氏自らがまとめられた小冊子「台湾の歴史」がある。
そこに、次のような記述がある。「李登輝の路線というのは台湾の民主化、自由化と大陸政策における二国論、はっきり国と国の関係であることを述べた点で、これを後退させてはなりません。」(2000年3月)。 中には、こんな強烈な言葉まである。「一番大陸に対抗できる体制は、日本と台湾とアメリカの三国軍事同盟ですよ。(中略)台湾併合もできなくなるし、台湾を脅かすけれど、そのときは、威嚇は日本の問題でありアメリカの問題であるわけですから。(中略)そこから、正常な外交が始まるのです」(1999年8月)。
上述のような、これまでの許氏の言動、さらには、先の声明書が発表されたのは、台湾の併合を目的とする中国の反国家分裂法に反対する百万人デモが、台湾で行われた3月26日であるということからも、その声明書は、大陸(中国共産党)が作成したものに、許氏が署名させられたものと推察されていた。
しかし、それまでは、この件については、日本においても台湾においても、多くの識者は、確信を持ってはいても、あくまでも推察でしか物申すことができなかった。
壇上に立たれた77歳の許氏は、「元日本人」としての矜持をもって、きれいな日本語で話された。冒頭に、件の声明書に触れ、穏やかな表情、静かな口調ではあったが、はっきりとおっしゃった。
「署名させられた」、「子供が殺される」。
説明を要する。
これまで、経済発展を至上命題とする大陸(中国共産党)は、奇美実業グループの大陸進出を歓迎し、様々な便宜を図ってきた。
しかし、台湾独立派の陳水扁が総統に当選し、許氏がその総統顧問に迎え入れられたのは、約3年前。それから、大陸は、手の平を返したように、しつように奇美実業グループに嫌がらせを加えてきた。中でも、現地工場長が突然拘束され、かつて工場建設用地の取得に便宜を図ったことまでをも違法として、懲役十年の刑に処せられたことは、許氏にとって大きな衝撃であった。
許氏は奇美実業グループの会長職を辞し、第一線を退いたが、その後も、様々な恫喝が繰り返され、幹部が不意に、何日も拘束されることも少なくなかった。
それらを受けての、「子供が殺される」であり、そのことを回避するための、「署名させられた」である。
私たち一行には、金沢の地元紙の記者も同行していたのだが、そのことを知ってか知らずにか、多くの識者が憶測で話されていたことを、はっきりとご自身の言葉で裏付けられることになった。
「明日の八田與一氏の墓前祭も参列したいのだが、皆さんにご迷惑をお掛けすることにもなりかねないので、ご遠慮申し上げたい。」
私たちは沈痛な面持ちでうつむくしかなかった。
私たち金沢人にとって、許氏は昨年7月に来沢され、許氏自らが寄贈された八田與一の胸像が飾られている、金沢ふるさと偉人館で講演をしていただいただけに、ひとしおである。
その講演において、許氏は、八田與一の話をしながら、その地元の金沢で、まさに自分が立って、話しをしていることに感激して、途中で、声を詰まらせておられた。
その八田與一の墓前祭に、参列したくてもできない―。
その後、許氏は、舞台端にある、黄色い生地が掛かった台座の傍らに行き、その生地をめくりながら、やはり、静かな口調で話しを続けられた。
その生地の中には、一人の日本人の胸像があった。
浜野弥四郎の胸像である。
日本の統治前、亜熱帯の台湾にはマラリアやペストなど様々な風土病が存在し、街頭にはゴミが堆積し汚水があふれていた。洪水があれば、汚水・汚物までをも含んだ水が街道を覆った。そのため、先の伝染病などが蔓延し、平均寿命は30歳前後であったといわれている。
日清戦争後、日本の統治領となった台湾。その民生局長となった後藤新平は、イギリス人衛生技師で当時東京帝大の講師であったウィリアム・バルトンを台湾に呼び、衛生土木監督に任命。バルトンは一番弟子の浜野弥四郎とともに、3年かけて台湾各地をまわり、上下水道の設計と水源地調査を行った。
バルトンは淡水と基隆の水道を完成させたところで、マラリアに感染し、東京に戻ったが、そのまま治癒することなく死去してしまった。そこで浜野がその事業を受け継ぎ、23年もの長い年月をかけて完成させた。
バルトンと浜野が建設した上下水道は鉄筋コンクリート製で、何と信じられないことに、本土の東京や名古屋に先んじて建設されている。これで台湾の衛生環境は一気に改善され、マラリアやペストなどの根絶の一翼を担った。
その浜野の後輩として、浜野の手伝いをしたのが、八田與一である。先にあげた新渡戸稲造もバルトンも、全ては、後藤新平から始まっている。後藤新平については、一度、しっかりと取り上げたい。
許氏は、台湾の下水道の歴史にバルトンの名は刻まれてはいるが、浜野弥四郎のことはほとんど触れられていないということに、以前から気になっておられたという。また、以前、台南県水上郷浄水場に建てられた浜野の銅像も、戦後の混乱の中、紛失してしまっているということを知り、浜野弥四郎の胸像を関係各方面に寄贈することを思い立ったという。尚、以前建てられていたという浜野の銅像には、「友人一同贈」と書かれていたが、許氏が色々と関係者に確認すると、どうやらそれは、八田與一からの寄贈であったという。そのことも、許氏が胸像寄贈を思い立った理由であった。
趣味とはいえ、相当な腕前の油絵をたしなむ許氏。「デッサンから彫刻までを、私一人で行いました。私の第一号彫刻作品です」。一同、和やかな雰囲気に包まれた。
その後、許氏手製による歌集「懐かしき若き日の歌」が、私たちに配られた。日本の懐かしい童謡・唱歌が掲載されている。私たちのリクエストにあわせ、許氏が、何人かの社員さんたちとともに、時にはバイオリンをひき、また、時にはギターを爪弾きながら、一同、楽しいひとときを過ごした。
八田晃夫氏も大好きな軍艦マーチを歌われ、「私は海軍なので、ここのところの歌詞はこうだ」と、海軍式の歌詞も教えていただいた。
すべての演奏を終えると、八田晃夫氏は、許氏に抱きつき、「会いたかった。本当に会いたかった。」と泣きながら叫んだ。許氏が、来年もまた来てくださいというと、晃夫氏は、「私はもう年だから、来られない」。傍らにおられた奥様が、静かに、来年も来ますとおこたえになられた。大変、印象的な光景であった。
許氏の現在の苦しいお立場、その中で、温かく迎えてくれるお心遣い。
八田與一のご子息である晃夫氏には及ばないが、心打たれ、涙しない者はいなかったのではないだろうか。
山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/ 山野さんにメール mailto:yamano@spacelan.ne.jp
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