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国際貢献を考える

2004年11月06日(土)
アメリカン大学客員教授 中野 有
 イラクのみならず世界には、恐怖と貧困に苦しむ人々がたくさんいる。日本でも台風や地震の自然災害が連続して発生し困っている人がたくさんいる。宮沢賢治の「風の又三郎」のように困っている人があれば東西南北に翔ながら、少しでも平和のために貢献したいと考えている人がおられると思う。

「東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい」このような風の又三郎のような行動こそ、外交、安全保障といった市民からかけ離れた分野でなく、国際貢献の理想ではないだろうか。

 萬晩報の読者の皆様の中には、若い又三郎のような人、また定年後の第二の人生を設計されている人、筆者のような国際フリーターもおられると思う。一人一人が地球規模で何ができるかを考え、行動することが平和の一歩となりうる。では、どのような国際協力や国際貢献についての情報源があるのであろうか。

 「国際開発ジャーナル」という40年近く続いている月刊誌がある。http://www.idj.co.jp/ 今月号の特集は、「あなたは国際協力のどんな仕事に向いている??」である。これは人生に多くのヒントと可能性を提供する月刊誌である。
 
 いつの世も紛争や戦争が絶えない。それは、人類が弱肉強食の性を備えているからであろう。人類の歴史が戦争であっても決して人類が滅亡することなく進化を続けているのは、人類の調和やヒューマニティーといった崇高な能力がDNAの中に組み込まれているからだろう。開発援助の仕事の本質は、ヒューマニティーの一環であると信じたい。

 国際開発の仕事に従事している人は、単に利益を追求しているのでなく地球全体の社会貢献に重点を置いていると思われる。しかし、政府開発援助が減少傾向にある中、開発のビジネスのことを考えれば、国際貢献という理想を追い求めてもそれが利益につながらないというのが現実である。

 国際貢献という理想が薄れた開発援助は、高圧的な態度で発展途上国と接し、先進国の一方的な価値観を押しつけながら機械的に仕事をこなしているにすぎないようにも映る。開発援助の仕事として情報収集や報告書を作成したりする作業も必要である。しかし、開発援助の仕事の本質は、机上の学問でなく、現地で日々生活する人の目線で開発協力を考え、最も効率的な手法で現地の生活水準を持続可能的に向上させることであろう。つきつめれば、人間の潜在と可能性を引き出す活動である。

「開発協力は人類の義務である」と語ったのは久保田豊である。戦前の日本は大いなる理想を掲げ満州の建設を進め、また戦後の急激な経済発展の中、東南アジアを中心に開発の理想が実践されてきた。地図をにらみながら、開発の空間に社会資本整備の理想が描かれ、その青写真が実現され、人材育成と技術移転が着実に行われたと聞いている。当時の開発援助は、夢があり、ダイナミックで情熱的であり、また崇高な汗の匂いが漂っていたように感ぜられるのは私だけであろうか。

 恐らく、このような社会資本整備と人材育成のバランスのとれた開発援助は、欧米の開発援助機関や国際機関では、実施されなかったであろうし、また、現在の日本の開発援助でも忘れされつつあると思われる。日本の得意とする国際貢献は、大規模な社会資本整備とそれに伴う人材育成であると考えられる。何故なら憲法9条を有する日本は、軍事的関与(ハードパワー)を通じ国際貢献を行うには制約があり、開発援助、経済協力、人材育成等の(ソフトパワー)を生かした国際貢献が最も有効だからである。

 国際貢献には、「矢とオリーブの木」が存在する。軍事と開発がコインの表裏であり、世界平和のためには両者がバランスよく機能することが求められる。戦前、軍事の矢で失敗した日本が求められるのは、オリーブの木が象徴する開発援助による平和の創出である。

 紛争を予防する活動や紛争が終わった後の復興支援には、危険が伴う。開発援助の仕事が、利益追求型に向かない根拠は体を張って仕事をしなければいけないからだと考えられる。報告書の作成では表面にでぬ平和を醸成する理想と情熱こそが日本の開発援助の本来の特徴だろう。そこが、軍事という矢の存在を活用できる欧米との違いであろう。

 では、いったいどのような形態で、開発援助の仕事に関与できるのであろうか。国際貢献を語る身分ではないが、20数年かけ中近東、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、アメリカで生活しながら学んだ多種多様な開発援助の組織でのエピソードを通じた国際協力の一端を紹介したく思う。

 戦時中のイラクの経験と先制攻撃

 80年初頭のイラン・イラク戦争の最中のバグダッドに駐在し、上下水道の供給のプロジェクトに従事した。これは偶然にも現在、自衛隊がイラクで行っている仕事に類似したものであった。当時のイラクは、戦時中にも係わらず大規模な水道事業が目白押しで、何百億円のプロジェクトが実施された。

 チグリス川、ユーフラテス川、蕩々と湧き出るオアシスの澄んだ水、荒涼とした砂漠に真っ赤な夕日にラクダのシルエットとヨルダンに続く水道のパイプライン。これらの光景こそ大型プロジェクトの醍醐味であった。イランの戦闘機とイラクの高射砲による応戦を目の当たりにし戦争の恐怖を実感した。

 イラクの核疑惑施設にイスラエルの戦闘機が先制攻撃した当時、イラクはアメリカの支持を得ていたのでイスラエルに対する非難が集中した。しかし、10年後に湾岸戦争が勃発したときにイスラエルの先見性が認められた。2003年のアメリカのイラクへの先制攻撃は、このイスラエルの行動が影響したといわれている。23年前のイラクの経験から考察すると、ブッシュ政権がアラブの本質を知ればイラク戦を回避する事が可能であったと考えられる。

 開発援助と予防外交
 国連工業開発機関の準専門家として西アフリカのリベリアで中小企業育成のプロジェクトを担当。2年間の契約を終え、2ヶ月後にリベリアで内戦が発生したことをウイーンの本部で知った。その後、13年の内戦が続いた。赴任地がゲリラの拠点となり多くの犠牲がでた。一緒に生活した仲間や子供達の犠牲を知り、開発援助を通じた予防外交の重要性を認識した。紛争が始まれば取り返しのつかない結末となる。家具製造の指導を行ったリベリア人から、難民になってもその技術は役にたったとの連絡を受け、開発援助の基本は、製造技術等のものづくりであるとのことを学ぶことができた。

 ネットワークと相互理解
 国連工業開発機関の本部では、アジア太平洋地域を担当。偶然、北朝鮮の担当になり、ウイーンの北朝鮮の代表部との人的ネットワークを通じ、マスコミ情報に振り回されることなく北朝鮮の内観を外望、2国間の国交がない場合も国連外交を通じ、日朝という同じアジア人の相互理解を深めることができた。

 シンクタンクとコンサルタントの合作
 地球規模の重層的なネットワークを生かし明確なビジョンを描くのがシンクタンクであるとすると、それを具体的に実現させるための青写真を描くのが開発コンサルタントの役割である。発展と紛争の可能性を秘めた北東アジアの空間に、コーエイ総研と総合研究開発機構の合作で「北東アジアグランドデザイン」を作成。

 国際NGOを通じた北東アジアの信頼醸成
 ホノルルの東西センター、環日本経済研究所、とっとり総合研究センターで勤務しながら、日本、中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、ロシア、国連機関、欧米が参加する北東アジア経済フォーラムに関与。冷戦構造が残存する北東アジア諸国が経済協力という共通のテーマで協議することにより地域の信頼醸成が構築。

 ワシントンのシンクタンクと大学
 外交、安全保障の中心はワシントンである。北朝鮮問題を解決するのにブルッキングス研究所やジョージワシントン大学のシガーセンターの影響力は大きい。北東アジアグランドデザインをワシントンのシンクタンクの視点で展望。アメリカン大学では、日本・中国・米国の国際関係論を教えることで、アメリカ人の学生のアジアへの関心を深めると同時に東西思想の調和が可能。

 多くの国々で生活し、多くの組織で働きながら国際貢献に係わってきた。マラリアにもかかり紛争にも出くわした。バグダッド、ケープタウン、モンロビアから、ウイーン、ワシントンまで地球規模のネットワークを構築することができ、国益も地球益も重要であるとの考えを持っている。開発援助の仕事とは、報告書作成といった机上の作業でなく、例えばアフリカ人の子供の目線で草の根レベルの発展を考え、そして同時に、紛争を未然回避するという崇高な情熱が必要であると考えられる。戦争と敗戦を体験し、世界でも希なる平和国家となった日本は、開発援助を通じた国際貢献を外交・安全保障の礎とし、多くの人々が参加できるシステムの構築が望まれている。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com

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