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「伊勢国酔夢譚」熊野に見えるもの

2004年10月30日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 90年代後半の数年間、京都に住みながら大阪に通うというぜいたくな暮らしをさせてもらい、古都を楽しんだ。寺院仏閣を含めて京都という空間に身を置いて、紐解く歴史がおもしろかった。

 同じような気分で三重県にやってきた。違うのは京都では歴史が目に見えるものだったが、三重の場合、歴史が神話の世界にまで飛んでいくということだった。

 最初に取り組んだ伊勢神宮については、いまだになぜこの地に天皇のご先祖さまである天照大神が鎮座ましましているのか分からない。

 神さまというのはご先祖さまをまつることだと祖母から聞いている。それぞれの家にそれぞれの神さまがいるというのが、日本なのだと考えてきた。明治時代に天皇が再び政治の最前線に立たされ、天皇はご先祖を含めてより神格化された。江戸時代、だまっていても伊勢参りがはやっていた。親しみを込めてこそ「お伊勢さん」と呼ばれたのだ。

 お伊勢さんに参ることが庶民の生涯の果たすべき夢だった。それほど親しみをもって参拝されていたのに、明治時代の薩長政府は、わざわざ“神格化”することによって伊勢神宮は庶民信仰から離れていった。そんな気がしてならない。

 さて熊野である。熊野ほど分からないところはない。修験道の地だという以前にだれのご先祖をまつるところなのか。だれも教えてくれない。国連教育科学文化機関(ユネスコ)は7月、紀伊山地の霊場と参詣道を世界遺産に登録した。いわゆる熊野古道である。3月からその古道をいくつか歩いた。いにしえの熊野詣での気分を少しでも体験しようと考えてのことだ。

 熊野古道を歩いた印象はいくつかある。伊勢から進む古道は山道を歩くのだが、思うほど森閑とした山道ではないということである。石畳はあるが、まず森林で古木に出合うことはない。みんな10年か20年程度の若い木々である。それに峠に出れば海が見える。熊野灘である。きらめく青い海が随所にのぞめる道を歩いていて孤独を感じることはない。山が深くないということである。

 修験者たちが歩んだ道。熊野古道のイメージとして誰もが思い抱く風景だろうが、そんな思いで古道にやってくると落胆するに違いない。和歌山側はまだ歩いていないので、あくまで三重県側の印象である。

 熊野三山のひとつ熊野那智大社は日本一の滝をのぞむ霊場だ。それこそ深山の印象が強いが、太平洋に面したJR那智勝浦駅からバスで30分ほどの地にある。マイカーで行けば海岸線から10分ほどの距離である。あまりに海に近いので驚いた。

 もう一つの霊場である熊野速玉大社はそれこそ海に面した新宮市内にある。霊験を感じる距離すらない。熊野本宮はさすがに熊野川を30キロ遡ったところにあるが、熊野川は紀伊半島一の大河で、滔々と流れるその姿は雄大だと表現することができても、幽玄とか森閑というイメージからすると相当に懸け離れてる。明るいのである。

 われわれの抱く霊場のイメージはまず暗くなくてはならない。多くの熊野の案内書には「死者の地」であるとか「修験の地」と書かれてある。苦行をする場で太陽が燦々と輝いていたら、どうしますか。

 この明るさが、世に喧伝される熊野イメージとあまりにも懸け離れているのだ。30年間、筆者はけっこう日本を旅してきたつもりでいるが、これほど事前のイメージと懸け離れた土地はない。

 そもそも死の世界を暗いと考えるのが間違いなのかもしれない。いにしえの人々にとっては、現世こそが苦悩と苦労の連続で、逆に来世である補陀落(ふだらく)の世界は明るかったのかもしれない。

 ここらに現代人の倒錯があるのかもしれない。古代人は明るさをを求めて熊野にやってきたと考えればものすごく分かりやすい。

 苦労して峠を越えるときらめく青い海が見える。その向こうに補陀落がある。補陀落には阿弥陀さまがおられる。死によって現世の苦しみから逃れることができる。そんなことを考えながら熊野古道を歩くうちに生きる勇気が湧いてくる。熊野詣でというのはそんな夢見る世界なのだとしたらすごいことになる。

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