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ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(10)

2004年07月31日(土)
萬晩報通信員 園田 義明

 ■アーミテージの第九条発言

 7月21日、アーミテージ国務副長官は訪米中の自民党の中川秀直国対委員長らと会談し、日本の憲法第九条について、「日米同盟の妨げ」と述べ、日本の国連安全保障理事会常任理事国入りの障害にもなるとの見解を表明した。そういえば、読売新聞はアーミテージについて、「日本の政界に多くの知己を持ち、副長官就任前まで在米日本大使館や石油、軍需関連など日本企業6社の顧問も務めた。(2001年5月21日夕刊)」と書いている。この6社あたりの思惑が複雑に絡んでいるのだろう。

 かつて、ジョン・フォスター・ダレスは1951年から4度にわたって来日し、「自由世界防衛に貢献を」と吉田茂に迫った。1953年11月に来日したリチャード・ニクソン副大統領(当時)も「日本の非武装を主張した1946年の米政策は誤りだった」と語り、大きな反響を巻き起こした。このニクソン発言は米国側の過大な防衛力増強要求をかわすための宮沢喜一の高等戦術として日本側からの提案に基づいて発せられた。ダレスの時代には朝鮮戦争が勃発し、米ソ、米中対立が日増しに激化する。しかし、吉田は経済復興重視の考えから、新憲法を逆手にとってのらりくらりとかわしていく。吉田の敷いたレールに乗って経済発展を遂げた現在の日本は、過去のことなどお構いなしに、アーミテージに同調して、政界も日本経団連も鼻息が荒くなっている。

 自国を守るために自らが築き上げた技術を使うのであればいいが、武器輸出三原則の見直し論には、短絡的なビジネス志向が見え隠れしている。結果として、うまい具合に日本の技術が米国に取り込まれ、米国依存を強化することにつながりかねない。

 当然表と裏の顔もあってもいいと思うが、日本の情報は米国に筒抜け、しかも今なおアーミテージ発言に見られる外圧依存が抜け切れていない中で、本来あるべき真の自立を目指した憲法改正ができるとは到底思えない。

 ■憲法第九条の宿命とクエーカーが手にしたもの

 憲法第九条の理論的な根拠はパリ不戦条約(1928年)の精神を盛り込んだ国連憲章(1945年)の影響を受けている。1920年から26年まで国連の前身である国際連盟の初代事務次長を務めた新渡戸稲造が願った「太平洋の橋」は、こともあろうに国連安保理の旗でお尻をたたかれながら、太平洋の橋は大量の最新兵器が行き交うだけの橋になりそうだ。

 詳細は後に触れるが、そもそも現行憲法は昭和天皇に対する戦争責任を追及する声を封じるために、共和党内のクエーカー派と日本で最初のクエーカーとなった新渡戸稲造一派の連携によって、国連憲章に彼らの理想をも取り入れながら生み出されたものだ。つまり、昭和天皇救出が確定すれば、自ずとと改正論につながる宿命を抱えていた。従って、米国が「逆コース」に転換しはじめた時点で、すでに米国にとって目障りな存在になっていたのである。

 現行憲法が公布されたのは1946年11月3日、その翌年1947年にクエーカーを題材にした西部劇映画に「拳銃無宿」(原題はANGEL AND THE BADMAN=天使と悪人)が公開された。当時すでにクエーカーの平和活動は世界的なブランドであった。このブランドを日米のクエーカー達が昭和天皇をお守りするために利用したのである。

 そして、この1947年10月にクエーカーは最高の栄誉を手にする。日本も含めた長年の世界各地での平和活動が評価され、ロンドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とアメリカ・フレンド奉仕団委員会(AFSC)が連名でノーベル平和賞を手にする。

 ■「新渡戸派=クエーカー派」を引き継ぐ者

 アーミテージ発言の10日前の7月11日、北海道遠友夜会は札幌グランドホテルで『高尚にして勇気ある生涯ー5000円札新渡戸稲造さよなら、又、会う日までー』と題するシンポジウムを開催した。今年11月に予定されている新札切り替えで20年にわたって5000円札の肖像画となってきた新渡戸稲造が明治の作家・樋口一葉に変わる。

 テレビにも再三出演し、イラク戦争に対して反対の姿勢を貫いた寺島実郎(北海道出身、三井物産執行役員、三井物産戦略研究所長、日本総合研究所理事長、中央教育審議会委員)は、この北海道遠友夜会の顧問を務めている。寺島は「新渡戸派=クエーカー派」を引き継ぐ人物のようだ。

 そして、寺島同様にイラク戦争に反対した政治家がいた。当時外相だった彼女は2001年6月にペンシルベニア州フィラデルフィアにある母校を訪ねた。出迎えた同級生と抱き合いながら、「みんな、おじいさんとおばあさんになっちゃって」と言葉を交わし、「日本最大の輸出品はイチローと新庄」などとユーモア溢れるメッセージを英語で読み上げた。当時話題を独占していた彼女の姿はテレビで何度も繰り返し映し出されていた。

 61年9月から63年6月までの約二年間を過ごした彼女の母校の名前は「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」、1845年に設立されたクエーカー・スクールである。彼女、つまり田中真紀子は記者団に「人の意見も聞くけど、自分もはっきり意見を持つようにという教育を受けた」と語り、“真紀子節”の原点がこの留学にあったことも披露した。

 田中真紀子は、留学中のケネディとニクソンの大統領選では、ニクソン支持のバッジをつけて校内で政策論議を交わしたという。この共和党のニクソンも実はクエーカーだった。ただし、ニクソンは大統領在任中にベトナム戦争を終わらせなかったため、教団から破門にされたとの説もある。従って一般的に田中真紀子は「親中派」と称されることが多いが、正しくはクエーカー派である。従って田中真紀子も「新渡戸派=クエーカー派」の数少ない生き残りのひとりとなる。

 ■エリザベス・G・バイニングと田中真紀子

 田中真紀子同様に、感受性の強い時期にクエーカーの影響を受けて育ったのが、現在の天皇陛下である。児童文学作家でクエーカーであったエリザベス・G・バイニング夫人は昭和天皇のご希望で1946年10月に来日、当初1年の予定は4年間に延長され、皇太子時代の13歳から17歳までの間の家庭教師を務めた。帰国後も両陛下の結婚式に外国人としてただ一人招待され、1999年11月に97歳で亡くなるまで天皇陛下との交流は続いた。

 バイニング夫人は1902年にペンシルベニア州で生まれ、津田梅子も学んだブリンマー大学を卒業後、ドレクセル・インスティテュートで図書館学を学んだ。29年にノースカロライナ大学教員モーガン・バイニングと結婚したが、33年に交通事故で夫を亡くし、自身も重傷を負った。失意の夫人を引きつけたのはクエーカーの「礼拝での深い沈黙の中の癒し」であり、また「平和と人種問題に対する明確な立場」であった。

 バイニング夫人は1934年、故郷ペンシルベニア州のクエーカー教徒の正式会員になった。会員となったのは「ジャーマンタウン友会」。そして、バイニング夫人の出身高校は田中真紀子と同じ「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」である。

 また、バイニング夫人はドイツにヒトラー政権が成立するとアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の難民部局でアメリカに逃れてくるユダヤ人を助けるための奉仕活動を行い、第二次世界大戦の末期には、平和と和解に貢献しようとアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)広報部に勤務していた。このアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)が1947年にロンドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とともにノーベル平和賞を授かったのである。バイニング夫人はこの知らせを在任中に受け取ったことになる。

 バイニング夫人は1969年にベトナム反戦運動で警察に逮捕されたこともある。この時「良心に従って、根気よく反戦デモを続ける」と語った。

 ■天皇家とカトリック

 感受性の強い時期にクエーカーであるバイニング夫人に学ばれた現在の天皇陛下に対して、皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまも第三世代キリスト教人脈と関わっている。皇后陛下美智子さまの生家である正田家がカトリックであることはよく知られているが、皇后陛下美智子さまを天皇家に迎え入れたのも第二世代キリスト教人脈の「新渡戸派=クエーカー派」であった。この流れは皇太子妃雅子さまにも受け継がれている。

 1934年10月20日に誕生された皇后陛下美智子さまは、本郷の大和郷幼稚園、四谷の「雙葉学園幼稚園」を経て、1941年に「雙葉学園雙葉小学校」に入学された。太平洋戦争の戦火が激しくなったため、44年以降には神奈川、群馬、長野と転校を繰り返され、47年1月に「雙葉学園雙葉小学校」に戻られた。47年4月に港区の「聖心女子学院中等科」にご入学、「聖心女子学院高等科」を経て、53年4月には渋谷区の聖心女子大学文学部外国語外国文学科に進まれ、57年3月に同大を卒業された。

 皇太子妃雅子さまは1963年12月9日に誕生された。外交官の父、小和田恒の仕事柄、1歳半の時のモスクワを振り出しに、ニューヨークと世界の大都市に在住された。71年年春に帰国し、新宿区立富久小学校などを経て「田園調布雙葉学園小学校3年」に編入学、そして、「田園調布雙葉学園中学校」、「田園調布雙葉学園高校」へと進まれた。高校1年の時、父親がハーバード大学に国際法の客員教授として招かれたのに伴い、再び渡米、ボストン郊外のベルモントハイスクールに通われた。そして、81年9月にハーバード大学に入学、国際経済学を専攻され、85年に同大学を卒業し帰国、86年4月に外交官を志し、東大法学部に学士入学するものの、同年10月には外交官試験に合格されたことから、翌87年4月に東大を中退して外務省に入省された。

 気付かれた方も多いと思うが、皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまは共に「雙葉学園」で学ばれている。雙葉学園は「幼きイエス会」というカトリックの修道会が母体となって設立した学校で、キリスト教的な全人教育を徹底している。現在、東京の四谷と田園調布以外に、横浜、静岡、福岡の5校があり、お互い姉妹校となっている。

 雙葉学園は聖心や白百合、上智などの大学に推薦枠を持っており、皇后陛下美智子さまも緒方貞子と同じカトリック系の聖心女子大学を卒業されている。そして、皇太子妃雅子さまが学ばれた田園調布雙葉学園の理事には山本正の兄、山本襄治の名前がある。

 皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまは、第三世代キリスト教人脈の中心人物である緒方貞子、山本譲治・正兄弟のカトリック人脈と密接に結び付いているのである。

 そしてこのカトリックの総本山であるバチカンは、米国主導のイラク戦争に一貫して反対した。

今年4月13日、天皇陛下はイラク戦争を主導したチェイ二ー副大統領と皇居・宮殿で会見されている。この会見こそが、現在の天皇家の「キャリアや人格を否定する」ものであったような気がしてならない。

 ■5000円札から1000円札へ

 戦後を担ったはずの日本国内のクエーカー派も戦中タカ派の復活組と第三世代キリスト教人脈のカトリック勢に押されて今や少数派に転じつつある。歴史的な5000円札の「切り替え」はこのことを象徴しているかのようだ。

 新渡戸は「どのキリスト教派よりも、フレンド派が神道と似た点がある」(「普連土学園百年史」)と語っていた。クエーカーと日本を結びつけた新渡戸はこのまま歴史の中に消え去るのだろうか?

 また、この切り替えは憲法第九条の改正をも意味することになりそうだ。その改正内容が現在の天皇家の「キャリアや人格を否定する」ようなものになる可能性があるのだろうか?

 寺島実郎も田中真紀子もかつて米共和党内で確固たる一勢力を築いたクエーカーの影響を受けており、決して反米ではない。また、天皇家もクエーカーの影響を強く受けていることから天皇派と呼ぶこともできる。ここに日本の保守派における二重三重の歪みや捻れを生み出した原因が隠されている。

 クエーカーは、英国、ペンシルベニア州(「(ウィリアム・)ペンの森」を経て、新渡戸らによって日本で神道と交わり、日本の経済発展にも大きく寄与した。このクエーカーと資本主義の関係は、非常に重要な論点であるにもかかわらず、今までほとんど言及されてこなかった。 

 こうした点も踏まえながら、次章から日本における第一世代キリスト教人脈と第二世代キリスト教人脈の中心を担った「新渡戸派=クエーカー派」を中心に歴史を紐解いていきたい。

 おそらくこのシリーズが終わる頃には、新渡戸に代わって野口英世が新1000円札となって戻ってくる。野口英世もクエーカーに関わる人物であった。結論から言えば、上のふたつの問いに対する回答もこの1000円札の野口英世に隠されているのかもしれない。つまり、新渡戸はクエーカーやカトリックとなって今に引き継がれ、また歴史を創り、憲法第九条の改正は現在の天皇家の「キャリアや人格を否定する」ことがないように最大限に配慮されるものになるだろう

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

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