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「IT化」は本当に情報革命を起こすのか――もう一度「情報」について考えよう
2001年08月16日(木)
メディアケーション 平岩 優

 昨年、友人である画家が個展を開いた。大きなキャンバスの黒地の上に鮮やかなエメラルドグリーンの絵の具をこすり付けた連作は、黒い地の部分が闇のような奥行きを感じさせ、身体がその闇の中に滲んでいくような心地がした。

 友人は「IT、ITと言われるほどに、絵画の前に身を置くという一度だけの体験がますます貴重になる」と胸を張っていたが、私も同感だった。絵画の前に立つことで、絵画とそれを見ている自分との間に往復運動があり、そこに濃密な時間が流れ、忙しい日常生活では感じとれない、自分が生きていることのリアリティのようなものに触れることができる。

 それはモニターの映像やメールのやり取りとも違うし、大画面の映像が包み込むようなテーマパークのアトラクションとも違う。自分と外界のものが浸透しあうような経験であり、そこから自分やものの実在の感触のようなものが残る。

 IT――情報通信の進歩だけではなく、飛行機や新幹線、高速道路など移動手段が発達したことで、私たちが確実に失っているものがあるような気がする。体験というか、身体に刻みつけられるような外界との接触、経験である。高速道に乗れば、外の風景の変化を感じることなく目的地に着く。飛行機にしろ、まさにプロセスのない、点から点への移動である。外国に出張したビジネスマンは着いた空港からタクシーに飛び乗って、ビジネス街のオフィスに直行し、仕事が終われば同じコースを辿って帰国する。ほとんどバーチャル体験と言ってよいだろう。そして、経験が薄まれば、その分、自分の存在も希薄になる。自分が希薄になれば、たぶん自分以外の他人の存在も、きっと希薄になるに違いない。

 江戸を舞台にした藤沢周平や池波正太郎の時代小説を読むときに、よく江戸時代の地図をひろげる。小説では、非常に正確に当時の地形や街並みが再現されていることに感心するが、小説の登場人物たちがよく歩くことにも驚かされる。昔は人生50年などと言ったが、今のわれわれの50年など、昔の人の生きた50年の密度に比べたら、すかすかのような気がする。

 森まゆみ氏の『一葉の四季』(岩波新書)によると、樋口一葉は生涯、浅草・本郷界隈から外にでることはなかったという。たった1度、日帰りで隣の埼玉県の大宮に出かけたことが例外だ。一葉だけではなく、太平洋戦争前には、そんな人も珍しくなかったのだろう。ついこのあいだまで、本郷に住んでいて上野の山の向こうに行ったことがない人もいたようだ。

 しかし、樋口一葉の『たけくらべ』、『十三夜』などを読めば、狭い土地での24年という短い生涯であっても、現実に直面し経験を刻みながら、自分の生の佇まいや暮らしの立ち行きをきちっと捉えていたことがわかる。本来、情報とはそのためのものではないか。

 何もITの進歩が悪いわけでも、情報機器がない方がいいと言いたいわけではない。先端的な学問もビジネスも、われわれの暮らしも最早、情報機器なしには成り立たない。先日、ニュートリノに質量があることを発見し世界的に注目を浴びているカミオカンデプロジェクトの梶田隆章教授(東京大学宇宙線研究所)にお話をうかがった。が、カミオカンデという飛騨の鉱山の地下にある観測装置には、100台のユニックスのワークステーションがつながれている。観測装置である水槽に、ニュートリノは1日10個ぐらいしか飛び込んでこないが、ミューオンという宇宙線がたくさん降ってくる。このミューオンのデータが将来、役に立つかもしれないという仮定にたち、毎日CDに換算すると3万枚分ぐらい記録されているという。今や、先端科学の分野などでは、こうした情報機器の利用は当たり前であり、また、そうした地盤のうえで大きな発見がなされている。

 しかし、それでも情報機器はあくまでも道具でしかない。ところが、その情報機器を通して送られる情報を消費するうちに――いつのまにか、情報も消費されるようになった――情報に繰られて、われわれの生が変容してはいないだろうか。

 たしか子供たちの欲しい物の1位が自分専用の電話になったのが、80年代だった。親が30年ローンで購入した住宅には、子供部屋も確保された。その部屋にはAV機器が並び、まるでコックピットのようだった。親たちからは「今の子は学校では友達としゃべらないで、家に帰ってきてから電話で友達と話をしている」という声が聞こえた。

 大学生になれば車を持つことが当たり前のようにもいわれた。車がなければガールフレンドができないというのだ。2人の世界から外界は閉め出された。

 そして、いま、電車の中でもどこでも、他人の存在など気付かないかのように、一心不乱にメールの文章を打ち込む姿が目に付く。単に遊びなのだろうが、渋谷で50メートルくらいしか離れていないのに、携帯電話でやり取りしている若者たちの姿がひどく空しく見えた。

 先日、大先輩のジャーナリストと久しぶりにお会いした。ヨーロッパや沖縄などに滞在して記事を書いた経験を持ち、いまは都市論の執筆の準備をしているという。その先輩が近ごろのメディアを「パソコンの前に座って、インターネットを使って書いたのか、あるいはその程度のレベルの記事ばかりだね」と評した。そういえば、たまに見るテレビのニュースも、何の意味もない映像を垂れ流し、何の情報も得られないようなナレーションがそれに被せられているようなものが多いのではないか。

 10年ほど前、居酒屋でシルクロードを旅してきたという、60年輩の未知の画家と、偶然隣あわせになったことがある。彼がいちばん印象に残ったのは「砂漠の中に散らばっていた都市の廃墟」だという。「情報というのは怖ろしいいものですね。情報が伝わることでそれらの都市は騎馬民族に滅ぼされた」と。

 IT化といわれる現在だからこそ、情報とは何かをもう一度考えようと自戒を込めて思う。

 平岩さんにメールは mailto:yuh@lares.dti.ne.jp

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