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大統領選挙が残したアメリカの傷跡

2000年12月17日(日)
元中国公使 伴 正一(高知市在住)

 そうでないという見方もある。しかし今回の大統領選挙が、アメリカの保持してきた軍事力以外の権威に大きなダメージを与えたことは否み難い。近代啓蒙思想に立脚した地上初の国家を発進させてこのかた、デモクラシーの旗手としてアメリカが果たしてきた世界的な役割は他の追随を許さぬものだった。

 アングロ・サクソン的風土に根ざす法の支配が、やがて最盛期ローマの域に達し得るかどうか。それがアメリカのリーダーシップに懸っていることは大方の国が認めるところである。 正に「ローマは一日にして成らず」、ここに言う軍事力以外の権威は、長期に亘る歴史と展望の中から自ずと醸し出されてきた貴重な精神的資産にほかならない。

 少し褒め過ぎかも知れないが、そんな国柄のアメリカ大統領選挙で、民主基盤の脆弱な一部の途上国にあり勝ちな票集計上の悶着が延々と続いたのだから全世界が唖然としたのも不思議ではない。

 とことんまで投票者の意思を確かめるところ、流石はアメリカ人と感心した日本人もいたようだが、いかに接戦だったとはいえアメリカともあろう国が、票集計上の細かい技術案件と思えることでこれだけもたつけば、どう贔屓(ひいき)目に見てもボロ続出の感は否めない。

 ●それほど出来のよくないことが分かった米デモクラシー

 "えくぼ票"が出易いとか、投票紙の様式が思い違いを起こさせ易いとか、定められた機械集計方式のシステム不備を理由に、(裁判で)集計方式の切り換えを図ろうとするあたりまでは、「いかにも訴訟社会らしい」で通るかも知れない。だが、デモクラシーの"家元"がそんなことでよかったのか。

 こんな時こそ提訴をするにしても自制して一審止り、国の内外で将来起るであろう類似ケースのため、早期収拾のよき先例を確立するんだという意気込みがあって当然ではなかったのか。問題を"細かい技術案件"とは言ってみたが、じっくり考えてみると、意外にも深いところでデモクラシーの基本原理につながっている。

 接戦になると多かれ少なかれ、勝敗の決り方に釈然としないものを残して決着をつけるしか選挙結果を確定する術(すべ)のない局面が出てくるものだ。「クジ引きとどこが違うんだ」と悪たれ口を叩かれても「クジ引きと同じで何が悪い。ほかに名案がなければそれで決着をつけるしかないではないか」と一気に押し切るしかない場合も稀ではない。

 選挙が万能薬であるかのような幻想は捨てなくてはならぬところへ辿り着いているのだ。選挙だってクジ引きみたいなもの、正確に言えば選挙そのものにクジの要素が内在しているという見極めをつけるのだ。最適の人が選べる保証もない選挙の限界を見据え、クジ的な決着方法を正規の選択肢に加えることは、虚構を排してデモクラシー運用を高める叡智(えいち)というものではないだろうか。

 古代ギリシャの都市国家(貴族的ステータスを持っていた市民の直接民主制)では軍司令官以外の要職への任命は抽選によったといわれる。ウソのような話ではあり、詳しいことが分からないので何とも言えないが、それなりに条件が揃っていれば人選びの方法としてまともに機能していたのかも知れない。何かのヒントになりそうな話である。

 ●デモクラシー運用の未開拓分野

 ここで一服、とも言えないが二つばかり問題提起をしておきたい。一つはアメリカの選挙が幾重もの同日選挙になっている点についてである。

 今回の大統領選挙でも同時に下院議員選挙が行われるし、ニュー・ヨーク州では上院議員選挙まで併行して行われた。こうなると三重の同日選挙だ。さらに知事選まで一緒になるいくつかの州では、知事以外に10内外の選挙職ポストがあるので選挙民の頭の混乱は容易に察しがつく。

 詳しく調べるには至ってないので断定的なことは言えないが、これほど沢山の選挙を一度にやるのは、一般有権者の知的能力の限界を超えている。これで真面目に選挙をやれというのは無理というものではないか。

 二つ目は有権者の意思を確かめると言えば聞こえはいいが、かなり眉唾的だということだ。名前の書き間違えやボタンの押し違えは、投票態度のいい加減さに起因する場合が多いはずだが、そうなのかどうかを含めて、手間をかけ出せばキリのない確認作業をどこらあたりで打ち切るべきなのか。

 安易には結論の出せない厄介な問題、デモクラシー運用部門全体の中でも大きな未開拓分野である。その批判がタブー視される有権者天使論の風潮が、どれだけ我々の目を実態からそむけさせ、選挙制度の各分野で気休め的な仕組みを温存させてきたことか。

 有権者の意思確認という尤もらしい大義名分がかぶさると、開票、集計の作業工程にいくら(無責任な投票行動の尻拭いに等しい)個別点検作業を組み入れても問題にならないどころか逆に良心的にさえ映る。アメリカン・デモクラシーに巣食っているそんな類いの"まやかし"にアメリカ自身がメスを入れ、今回のやり損ないをきちんと総括して欲しい。

 ついでながら、日本人もそんなことに役に立つことが言えるくらいになることを努力目標の一つしてみたらどうか。その過程で日本におけるアメリカ論が地についたものになること請け合いだ。

 ●米国でも難しい法による支配

 当事者による上訴につられて各級裁判所の判断が反転、再転したことは、裁判制度の仕組みから言えばそれほどおかしいことではない。

 しかしその過程で、多分に政治的な判事任命の実情が取り沙汰されるに及んで(特に日本の場合は報道陣の素養の欠落が一因だったと思われるが)法の支配のモデル的存在だったアメリカ司法の権威に、よもやと思われる翳(かげ)りが出てきたことは争えない。アメリカにおける三権分立の特徴は三権相互のチェック・アンド・バランスだとされるが、今度のような機会にじっくり見直しをしてみることは是非とも必要なことではなかろうか。

 しかし何と言っても法の支配に血を通わせるものは、裁判を積み重ねていく中で醸成されて行く信頼であり、その源(みなもと)になるものは裁判そのものの公正である。このことを考えると,今回のことで生じたアメリカでの法の支配の翳りを消し去るには予想以上の年月を要するかもしれない。

 しかしアメリカで達成されない法の支配が世界レベルで達成できるはずはない。ましてや國際司法裁判所が権威を確立して、武力紛争の事前防止に大きな役割を演ずるような法の支配の時代の到来は全くの夢物語に終わってしまうに違いない。

 アメリカには色々注文をつけてきたが、デモクラシーの家元としても,法の支配への牽引力としても、アメリカは重要な世界史的役割を期待されている国である。自重自愛、これからは叡智(えいち)の涵養にも心掛けて本来の権威を回復し、更に今まで以上に高めて、それを世界のために役立てて欲しいのである。


 伴 正一さんにメールは simanto@mb.infoweb.ne.jp
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