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「フロイス日本史」12巻と南蛮文庫

2000年03月17日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄



 1月から中公新書で「フロイス日本史」に復刻版が出版されている。まだ2冊しか手にしていないが、12月まで毎月1冊ずつ上梓されるというから大著である。最後まで読めるかどうか不安である。

 ●歴史家松田毅一のライフワーク

 原書はキリスト教の布教のためはるばる日本にやってきたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが描いた400年前の日本紹介の書である。不幸なことにこの膨大な著作は当時のマカオのイエズス会から「あまりにも文章が冗漫過ぎて、しかもキリスト教の布教には役立つものではない」と烙印を押され、ポルトガル語で書かれた原本はフロイスの死後、マカオで焼失した。

 400年後にそれが蘇ったのは、3年前に亡くなった故松田毅一の功績である。功績というより執念といった方が正確かもしれない。焼失したフロイスの「日本史」の写本があることを知った松田毅一は数十年かけて世界に散らばった写本を集め、全編の活字化に取り組んだのである。これは歴史家のライフワークである。

 イエズス会というのは日本人なら誰でもが知っているザビエルらバスク人たちがつくった当時の新しい教団だった。バスク人はいまでもスペインとフランスの国境に住み、独立を目指す人たちである。

 16世紀、ドイツでルーターが、またスイスでカルビンがプロテスタントを起こし、キリスト教に新風を送り込んでいたころ、スペインの北方で異端視されていたバスク人たちが起こした教団が伝えたカトリック教がアジアで新鮮な宗教として受け入れられたのだから歴史は皮肉である。

 いずれにせよ現在のポルトガル人にとっても難解な400年前の旧ポルトガル語から日本語訳して活字化した松田毅一の偉業は歴史的な業績であるはずだ。20年以上も前に出版された「フロイス日本史」全12巻は1981年に菊池寛賞と毎日出版文化賞を授賞した。

 当時、横浜国立大学経済学部で松田毅一にスペイン語を学んでいた作家の沢木耕太郎氏は著書「深夜特急」の中で「450年前のどこかの国の宣教師が書いた本の翻訳に一生を賭ける熱をあびた」と若手学者だったころの松田毅一氏を紹介している。沢木耕太郎はさらに、松田毅一に学ばなかったらアジアや世界への旅にも出なかったかも知れないと2年余前に出た松田毅一の追悼集に書いた。

 ●大村市にできた「南蛮文庫」

 筆者もまた学生のころ、松田毅一が書いた南蛮関連の著書を何冊か読み、刺激を受けた一人である。5年ほど前、友人を介してその長男である松田健さんと知り合いになったから縁とは奇なるものである。

 筆者が知った松田健さんは日刊工業新聞の記者を辞めて、経済ジャーナリストとして独立したばかりだった。「インターネットでアジアの記事を書くんだ」と話をしていた。「何を夢のような」と思ったが、あっという間のそれが当たり前のこととなった。健さんはいまも年の半分以上はアジアにいる。

 その健さんから最近、長いメールをもらった。亡くなった父親の「松田毅一南蛮文庫」が長崎県大村市にできて、寄贈した5,400点におよぶ蔵書・史料が市立図書館で2月18日から一般公開されたという知らせだった。

 「松田毅一南蛮文庫」には、ルイス・フロイスが手書きで執筆した「日本史」の写本だけでなく、松田毅一が取り組んだ仕事に関するすべての史料のほか、大阪の天王寺中学生の時に執筆した「台湾・沖縄の旅」などの珍しい本も納めてあるという。

 大村市と松田毅一の関わりは長く深く、若い学者だったころ、1954年に当時の大村純毅市長の依頼により「大村純忠伝」を執筆したほか、最近まで同市で開催されて講演会や天正少年使節などに関するシンポジウムにも参加していとということだった。

 豊織時代は幕末とともに日本史のなかでも最もドラマに満ちた時代だった。生涯をこの豊織時代の解明に尽くした松田毅一の文庫が南蛮ゆかりの長崎県に生まれたことを喜びたい。健さんは「蔵書目録は、京都の長岡京市の書斎で父がとっていた分類方法が採用されているため、父の書斎がよみがえった感じです」とメールを結んでいた。


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