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中国で復活した蒋介石委員長という呼称

2000年02月09日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄



 故蒋介石(1887−1975)の故郷が中国浙江省奉化県だったことを1月末に江南の寧波市を訪ねて知った。

 蒋介石は台湾では孫文の思想を受け継いだ偉大な政治家であるが、大陸では清朝崩壊後の混乱の中国を統一した功績は忘れ去られ、長く「匪蒋」と呼称されてきた。共産党にとっては中国統一を阻んできた憎っくき「敵」だった。

 台湾海峡をはさんで50年以上も敵対していたとしても、大陸にとっても国父である孫文の後継者に「匪」という字を冠してきたのはいかにも歴史を歪める行為だと考えてきた。

 ●一大観光地となった奉化県渓口鎮

 ところがどうも風向きが変わって来たようなのである。きっかけは1996年11月。蒋介石が育った奉化県渓口鎮の旧居が国務院の「全国重点文物保護単位」に指定されてからである。

 奉化県渓口鎮は寧波市から西へ車で約1時間の川沿いの寒村である。豊鎬房(旧居)や玉泰塩鋪(蒋家経営の塩店)といった蒋介石ゆかりの旧跡が整備され、少し離れた小高い山の中腹には蒋介石の母親・王采玉を祀る蒋母墓も遺る。墓石の書は孫文が蒋介石のために書いたのである。

 休日には湖南省長沙の毛沢東の旧居並み人が押し寄せるいまや一大観光地の様相である。

 蒋介石はいまや「匪」どころかいまや「先生」と呼ばれるようになっている。このことは日本でもあまり知られていない。帰国してから何人かの中国研究家に聞いてみたが、みな「本当ですか」と共産党政権の蒋介石に対する評価の変化に驚いていた。

 これも旧跡だから当然のことなのだが、多くの碑文に堂々と「民国○○年」と表記されている事実にも驚かされた。案内してくれた運転手は「蒋介石にゆかりのある旧跡は文化大革命のときに全部壊されて、いまあるのは最近できたものだ」とうそぶいていたが、どうみてもここ数年の建物ではない。

 展示されている古い写真と同じ建物や石碑がそのまま残されているのだ。さらに驚いたことは蒋介石関連の書籍が町のいたるところで売られていることである。単なるガイドブックではない。歴史的に検証されたちゃんとした書籍である。

 一昔前の中国だったならば、ただちに「蒋介石復活/生まれ故郷の奉化県で」などという見出しで大ニュースになったのだと思う。蒋介石の再評価静かに進んでいる。

 現地で聞いた話などを総合すると、李登輝台湾総統が初めて台湾の国民の選挙で総統に選ばれたころから中国の歴史学会を中心に始まり、「人民公敵」とされていた蒋介石が「先生」と呼ばれるようになった。一部の学者は研究論文で「蒋委員長」と全中国を統一した当時の肩書きで呼んでいるそうだ。

 これは蒋介石の完全復活と呼んでいい現象なのかも知れない。

 ●日本で軍人としての素養を積んだ蒋介石

 1905年、孫文ら革命派が大同団結して中国同盟会を結成するなど東京は反清革命のその後の有力者たちがうごめくいわば前線基地だった。そうした動きを蒋介石は学業を積んだ寧波などで知った。しかし蒋介石は直接、革命運動に飛び込むのではなく軍人の道を選んだ。

 1906年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学ぶ、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたといってよい。

 生涯、4人の妻を娶った。最後の妻は宋美齡であることはあまりにも有名である。浙江財閥宋一族の三姉妹の長女靄齡はビジネスマンでもあった孔祥煕に嫁ぎ、二女慶齡は孫文と結婚し、未亡人となった。1927年の三女美齡との結婚には二つの意味があった。

 一つは1925年に亡くなった孫文の義理の弟として、国民党の直系閨閥につながるということだった。二番目は宋家が国民党のスポンサーになるという意味だった。結婚の翌年、蒋介石の北伐軍は北京に入城し、中国統一を宣言した。後に兄の宋子文は約束通り国民党の財政部長となった。

 最初の妻の毛福梅との結婚は蒋介石が15歳のときである。そのとき毛福梅は4つ年上だった。蒋介石は生涯2人の男児を持った。台湾の二代目総統となった長男の経国は毛福梅の子供として1910年に生まれた。

 二男の緯国は革命の先輩格である戴天仇が日本人女性に生ませ、上海の日本人志士、山田純三郎が預かっていた子供を引き取って育てたといわれる。この緯国の出生の秘密は最近になってようやく定説として浮上しているが、本人が死去し、関係者もこの世にはいないためもはや確かめようがない。

 ●天台宗総本山に掲げる蒋介石の揮毫

 奉化県からさらに南西に入ったところに天台宗総本山の国清寺があり、その沙三堂に蒋介石の揮毫による「台宗講席」と書いた額が掲げてあった。「民国26年(1937年)、蒋中正書」の署名がある。「台宗」は「天台宗」のこと。「天台の有り難い講話を聞いた席で」という意味である。

 この額は文化大革命が終わるまで国清寺が隠し、1979年からここに掲げたというのだ。30年間近く中国と台湾を見つめてきた筆者にとって特別の感慨があった。

 1920年代、孫文が国共合作をつくりあげた。革命の道半ばで逝去した後、蒋介石による共産党討伐が始まり、共産党勢力が苦闘の時代を迎える。日中戦争では再び国共合作が組まれるが、戦後は国民党と共産党とによる内線に突入し、結局は共産党が大陸を再統一、蒋介石は台湾に渡って大陸復興を目指すことになる。

 李登輝総統は中華民国による大陸の統治権という虚構を捨て台湾人による台湾統治を進めているが、いま大陸はしきりに「第三次国共合作」という秋波を台湾に向かって送り続けている。


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